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講座「アートとしての数学」第 4回メモ

第 3回が予定外の内容展開となったので, 第 3回に予定していた内容を第 4回に予定する。ピタゴラス派の話しの続きで, 無理数の発見について。

分数で表せない数(無理数)の発見。 (ヒルデブラント他著「形の法則」p.34〜35参照) それに関係したらしいペンタグラムと黄金分割とユークリッド互除法。そこからはじまる連続と非連続と無限の歴史。・・・・・

今回は数学の中味に入りますが, 前提として必要な数学は中学3年程度です。こわがらないでください。

「有理数と無理数」は, 言語と非言語, 生と死, などの関係にもアナロジカルな面があります。

無限と限定

数, 1, 2, 3, 4, ・・・・・ は無限に続き, 無限に大きくなる, と言うときの無限は, 数という限定されたもののくりかえしが生む無限である。1, 1/2, 1/4, 1/8, ・・・・・ は無限分割と無限小を生むが, これも数という限定されたものが生む無限である。これらを「限定が生む無限」と言おう。

これに対して「無限定あるいは未限定の意味の無限」がある。

ピュタゴラス派は世界を, 限と無限の調和としてとらえたと言うが, 次の引用の無限は,「無限定の意味の無限」と思う。

ピロラオス(ピタゴラス派)の「宇宙について」から。「存在するものはすべて限定するものか, 限定すると共に無限なるものかでなければならない。しかし, 無限なるもののみでも, <限定するもののみでも>ありえないであろう。・・・(略)・・・, したがって宇宙も, その内にあるものも, 限定するものと無限なるものから合成されていることは明らかである。
(ストバイオス「自然学抜粋集」)

イメージ化を助けるための例として。茶碗は, 素材としての土(形になる前の無限定なもの)と茶碗の形(限定するもの)の合成といえる。

宇宙生成と数の本性

ピュタゴラス派の人たちも空虚が存在すると主張した。そして,気息(空気)と空虚が無限なるものから天そのものの中に --- いわば天が気息を吸いこむようにして --- はいっていき, 空虚は, 継続的に存在するもののうちのあるものを分離し, 区分するようにして, もろもろの自然本性を区分する。そして, このことはまず最初に数においておこなわれる。なぜなら, 空虚は数の自然本性を区分するからである, と主張したのである。
(アリストテレス「自然学」)
<注>アリストテレス「自然学」の別の箇所に, 「ピュタゴラス派は天の外側にあるものが無限であるとしている。」

こういう文章は神話を読むか夢を見ているような気分にさせてくれる。

無限定なるカオス(混沌)に空虚が入りこみ, 分割されつつ形を作り, 星々とその秩序ある動きが生まれる。このことが数においてなされると, 混沌が分割され, 1, 2, 3, ・・・・ の数が生まれる, ・・・・・・ こんなイメージは単純すぎるかもしれないが解釈の助けと思ってほしい。生命誕生における卵割のイメージとも重なる。
そうすると, ギリシャ数学が, 本当の数としては, 1, 2, 3, ・・・・ の整数だけを認め, 分数を実用上のものとしてしか認めなかったことにも, つながってゆく。
また, 無限定の音(宇宙のうごめきが発するもの)から, メロディーを形作る音を, 弦長の比という数が選び出す。
いつも, 数は, 無限定なるカオスに限定と秩序を与えるものなのだ。

無理数の発見

ギリシャ数学は 1,2,3,・・・・・・ など整数だけを本当の数と認めた。「水がコップの2/3(三分の二)入っている」ということは, 「水とコップいっぱいの体積比が 2 : 3 」と表現できるので, 分数についての理論はすべて比の理論として述べられる。
「万物は数に似る」(ピタゴラス派)の「数」は整数だから, どんな長さの比も整数比で表されるべきである。ところが, 正方形の対角線の長さと 1辺の比, でさえ, 整数比で表されない。これが(今流に言うと)無理数の発見であり, ピタゴラス派にとっては大ショックだったらしい。

すでに, ギリシャよりはるかに古くバビロニアでは, 正方形の対角線の長さと 1辺の比を, 正確な値に限りなく近づいてゆける見事な計算方法を見つけていたし, 古代のインドや中国もすぐれた数学を生んでいたが, 無理数の「発見」とショックはなかったようだ。「整数」だけを真の数とみなしたギリシャ文化こそ「発見」しえたのではないか。

文化としての数学

数学は, 民族や文化による違いが原則的に存在しないものと思われている。確かに, 日本では 3×6=18 なのに, イギリスでは 3×6=17 であり, 両者で論争が起こった, というようなことはない。

しかし, 数学のスタイルや, 文化的意味合いを見ると, 民族によっても時代によっても大いに違い多様である。たとえば, ある概念がどの国でどんな文化背景で発見されたかということは興味深い。

古代ギリシャは無理数を発見したが, 0 や負数を数の概念としてとりいれることはなかった。0 と 0 をふくむ計算法は 5, 6世紀にインドで発見されたとふつういわれる。負の数と負数をふくむ計算法は, 中国で, 紀元 1世紀より以前にはじまった。一方, これらインドや中国で無理数の概念が独自に発見されてはいないと思う。(と書いたが不勉強で確言できない。)

そこで, 「ピュタゴラス派の限-無限の思想→無理数の発見」と言うことならば, 「仏教の空思想→ 0 の発見」「古代中国の陰陽思想→正負の数の発見」はどうか ? これらの思想と数学概念の関係について, 実証的な証拠を読んだことはない。 直接的に意識された関係はなかったとしても, 同一文化の生み出したものどうしの共鳴関係は感じる。

実数概念

有理数(分数で表せる数)と無理数(分数で表せない数)を合わせた実数は, 加減乗除にたいして閉じた数集合であるだけでなく, 極限操作に対しても閉じた数集合である。

<注> 「閉じている」とは, たとえば, どんな整数どうしを, たしざんひきざんかけざんしても答えは整数の世界からはみ出ない。 これを「整数の集合は加減乗の演算に対して閉じている」という。整数の割り算, たとえば 1÷2 の答えは整数でないので「整数の集合は除法に対して閉じていない」。
実数は加減乗除だけでなく極限操作に対しても閉じているので, 微分積分, 級数計算, 何をしても, 計算結果は同じ実数の世界の中で得られる。今の数学にとって基本的な土俵となる理由だろう。