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講座「アートとしての数学」第29回(2005/8/11)メモ

言語表現と数学(続き)

10倍10倍問題

等比数列の文章表現として, 2倍ずつと 7倍ずつの例を見てきたが, そもそも, 一, 十, 百, 千, 万 ・・・・・ という十倍ごとの数の名前そのものが等比数列の言語表現である. 等比数列が生みだす無限の増大感覚は, 数の名前にどう現れるか.

「孫子算経」(中国4,5世紀)にある万より大きな数の名前は順に

億, 兆, 京, [こざとへん+亥(がい)], し(のぎへんの漢字), 壌, 溝, 澗, 正, 載.

載は「銭を大地に載せるだけ載せた限界」のような意味らしい.

注. 今の日本では, 万万が億, 万億が兆 ・・・・・ のように1万倍ごとに大きい数の名を使うが, 古い時代の中国や日本には, (1)十万が億, 十億が兆のように十倍ごとに次の名になる方式や, (2)万万倍ごとに次の名になる方式や, (3)万万が億, 億億が兆のように, 数の名と同じ倍だけしてから次の名になる方式もあった. 日本で今の万倍方式がふつうになってきたのは江戸時代のことだそうだ.

「算学啓蒙」(中国1299年)では, 載までは同じで, さらに,

極(きょく), 恒河沙(ごうがしゃ), 阿僧祗(あそうぎ), 那由他(なゆた), 不可思議, 無量数
が付け加えられている. 恒河沙以降は, 仏教経典にある言葉から来ている.
恒河沙=ガンジス川の砂. 阿僧祗=アサンキヤ「数えられない」の意.那由他=インドの大数の名のひとつ.

中国から数学を学んだ日本の大数の名も, 一部の漢字が化けているが中国とほぼ同じである.
平安時代 10世紀の宇津保物語は, 未知の国に漂流し名琴, 秘曲を手に入れて帰国した俊蔭の物語. 俊蔭が手に入れた木は
「空しき土を叩くに一万恒河沙の宝いづべき木也」
と, 巨大な数量をあらわすために恒河沙が現れている. 伊達宗行「数の日本史」(日本経済新聞社)によると, 日本の古典に現れる大数でこれより古いのは見たことがないと言う.

逆に, 小さな数も見ておこう.「算学啓蒙」(中国1299年)には, 「小数の類」として

一, 分, 厘, 毛, 糸, 忽, 微, 繊, 沙, 塵, 埃, 渺, 漠, 摸糊, 逡巡, 須臾, 瞬息, 弾指, 刹那, 六徳, 虚, 空, 清, 浄

(厘, 毛, 糸, は元の漢字と同じ音で似た形の漢字.)
「算学啓蒙」によれば, 一から沙まで10分の1倍ずつで, 沙から浄までは1億分の1倍ずつ.
沙以下の名称は仏教経典の諸単位の名から借用している.

途方もなく大きな数のお話し

大数の話題のついでに, 等比数列に限らず「途方も無く大きな数のお話し」を追ってみる.

仏教の宇宙論に出てくる「三千大千世界」略して「三千世界」という言葉について. まず, 単位となる「世界」は日と月が1個ずつあり, 須弥山, 星, 地獄, 餓鬼, 畜生, 阿修羅, 人間, 天などをワンセット取りそろえた世界である. この「世界」が千個集まって小千世界となり, 小千世界が千個集まり中千世界, 中千世界が千個集まって大千世界となる. つまり, 大千世界には, 単位の世界が1000×1000×1000=10003=10億個あり, 大, 中, 小の千世界をふくむから「三千大千世界」という.
ここでの大きな数量の作り方は, 1000, 10002, 10003 と, 1000個ずつ束ねて上のレベルをつくる"千進法"型である.

仏典に出てくる時間の長さに「劫(こう)」というのがある. (未来永劫の劫.) 劫はインドのカルパの漢訳で, ヒンドゥの世界観では 1カルパ=43億2000万年だというが, 仏教では「想像を超えた長期間」を漠と表し, 譬えで語られている. 芥子(けし)劫の譬えによると, 1辺 1ヨージャナ(1日の旅程ほど)の立方体の城の中に 芥子粒をみたし, 百年に 1個ずつ取り出して全部終わってもまだ 1劫は経過しない. 磐石(ばんじゃく)劫の譬えによると, 1辺 1ヨージャナの立方体の固い大石があり, カーシー産の綿ネルでもって百年に一度さっと払い, 石が磨滅して消滅するまで払いつづけても, 1劫は終わらない.

さて, 法華経に塵点劫と呼ばれる譬え話がある. ブッダがこの上なく完全な「さとり」をさとって以来, 幾千万億劫の時間が経過したという.その時間を次のように譬えている.五十・千万億もの世界にある大地のすべての微粒子のうち,一粒を手にして東方へ五十・千万億という無数の世界を越えてゆき,その一粒捨てるとしよう.こうして,1回に一粒ずつ幾千万億劫のあいだ捨てつづけ,初め考えた世界の大地が無くなったとしよう.そして,微粒子を捨てた世界にせよ捨てなかった世界にせよ, すべての世界の大地にある微粒子の数を考える.その数でさえブッダが完全な「さとり」をさとって以来の幾千万億劫の数におよばない.(ここの内容は岩波文庫「法華経」に載せられているサンスクリット語文献からの日本語訳によっている)
文意を正確にはつかみにくいが, 初め考えた世界の全微粒子を一粒ずつ, 初めの世界の大きさくらいの間隔で捨てていき, その捨て場所となったはるかに広大な世界の大地をみたしている微粒子の数を考えるのだろう.
この場合の大きな数量の作り方を, 元の経典の具体的な数にこだわらずに, 原理的に見ておこう. 初めの世界の体積を 1とし, そこに含まれる微粒子の個数をN個とする. このN個を, 捨て場所となる体積 1の世界ごとに一粒ずつ捨てたとしてみる. すると捨て場所の体積は N 必要であり, 捨て場所体積 1につき微粒子が N個あるとすると捨て場所全体では N×N=N2 個の微粒子となる. 結局, Nがとてつもない数であっても, 得られる巨大な数の程度は数式で書くとN2というだけで書けた.

世界を作る微粒子の数というと, アルキメデス(紀元前3世紀. シシリー島)の「砂の計算者」が思い出される. 古代の数学の天才アルキメデスは, 当時の天文学による仮定の上でのことだが宇宙の大きさを推量し, もし宇宙全体を砂粒でみたすと, 砂粒の個数は現代の記法で 1063 より多くないと概算した. アルキメデスは「砂の計算者」で, 巨大な数を無限に数えてゆく体系を考えている. 108=オクタード(1億). 108の108乗= オクタードのオクタード.(1億の1億乗) 108の108の108乗= オクタードのオクタードのオクタード.(1億の1億乗の1億乗)

再びインド. ジャイナ教の文献「アオヌーガッダーラ」(3世紀. 一説に4-5世紀)などには, 無限に至る数の階梯の描写がある. 林隆夫「インドの数学」(中公新書)の解釈にしたがいつつ, 無限を描くための物語と数学について簡単に触れよう. 前回メモの同心円状の大陸と海の中央にあるジャンブー大陸と同じ広さで高さ1000ヨージャナの穀倉に白芥子の種をいっぱいにつめる. そのすべての種(N個としておく)を 1つずつ, ジャンブー大陸を初めとする大陸と海にひとつづつ置いてゆく. 最後の種が置かれた大陸か海までの全領域と等しい広さで高さ1000ヨージャナの穀倉を作り, それに白芥子の種をいっぱいにつめる。この種の個数をA1とし, このA1個をまた, 中央から大陸と海にひとつづつ置いてゆき最後の種が置かれたところまでの全領域に等しい広さの穀倉を作り, 白芥子をいっぱいにつめた個数をA2とする. このような過程をN回繰り返し白芥子がAN+1個となる. くわしい手順をはぶくが, 再びA1個からはじめてここまでと同様の過程を(N+1)2回繰り返し, 全過程を通して次々に現れた白芥子の個数の総和(+その他)が,「限定不可算の最低値」(aとする)といわれる数である. 詳しい計算を知りたい人は林隆夫氏の本で見ていただきたい. ただ, 白芥子の個数の数列, A1, A2, A3 ・・・・・・ を決める漸化式が

Ai+1=N(2Ai+1-3)2
となり, 前項 Ai が指数として現れる形の漸化式になることを注意しておく.
「限定不可算の最低値 a」はまだ無限に至る入り口で, このあと,
aa=b, b2=b', b'b'=c, cc=d, dd=e, e2=e', e'e'=f
という指数的飛躍の梯子でたどりつく f が「無限的無限の最低値」だそう. そして, f+1, f+2, ・・・・・ の先は「最高値」の存在しない境位に抜ける. こうして「無限」を指し示したわけだろう.

結局, 無限に至るのなら, 一言「限りなく多い」ですませても同じことだという冷ややかな意見もあろうが,途方もない数量のかなたに無限を望み見ようとしたジャイナ教徒の熱に感じていただきたくて紹介した.

G.カントール(1845--1918)は, 自然数の集合と実数の集合が 1対1対応させられないことを証明し(1873年), 無限大にも種類があることを示した. イメージとしてだけ言うと, 1, 2, 3, ・・・・・ と数えてゆける先にある無限(可算無限)よりも, 分数や無理数もふくめて直線上にギッシリ連続的に埋まった実数の個数がつくる無限の方が「ほんとに多い」という感じである. さらに実数の無限よりも大きい無限も次々につくりだしてゆける.(超限基数論)
先に触れたジャイナ教の無限でもまだ自然数の無限(可算無限)ということになる. では, 古代からの想像力には,実数の無限を示唆するものはまったくなかったろうか? 私は知らない.

次に, 無限大と無限小を思うパスカル(1623--1662)の想像力を見る. 「パンセ」から. (津田 穣 訳. 新潮文庫 第72節)

・・・・・ あのきらめく光が宇宙を照らす永遠のランプのようにすえられているのを見よ, この天体のえがく大いなる輪にくらべるならば, 地球も一点に見えることを思え, この大いなる輪そのものもまた, 大空をめぐるもろもろの天体の抱くものにくらべるならば, ごくわずかなる先端にすぎないことにおどろくがよい. ・・・・・・ 我々の観念を想像せられうる程の空間という空間をこえてひろげていってもむだである. 事物の実在にくらべて原子をつくりだすにすぎない. ・・・・・・ 無限のうちにあって人間とはなんであろうか.

一匹のシロン(ダニの一種)を得て, その小さな体のうちに, その体と比較にならぬほど小さい諸部分を見よ, 関節をもった脚を, 脚のうちに血管を, 血管のうちに血を, 血のうちに液質を, 液質のうちに滴を, 滴のうちに蒸気を見よ, さらにこの蒸気を分析して ・・・・・・ たどりつくことのできる最後の対象を, 今あらたに我々の話しの対象とするがよい. ・・・・・ この原子の縮図の範囲内に ・・・・・・ 無数の宇宙を見るがよい, それらの宇宙はそれぞれの天空とその遊星とその地球とを, この見える世界におけると同じ比例をなして持っているのである. 次いでその地球の内に動物を見, 最後にシロンを見るがよい. 彼はこのシロンのうちにさきほどのシロンの示したものを見出すであろう. そうしてさらにこの後のシロンのうちに, さきほどと同じものを, 限りなく休みなく見出して茫然とするであろう.・・・・・ 我々の体が今は, この辿りつくことのできない無にくらべてひとつの巨人となり, 一つの世界となり, むしろ一つの万有となるのを見て, 誰か驚嘆しない者があろうか.

原子的な極小の箱の中に宇宙的な極大を見つけ, その宇宙内の極小である原子に再び宇宙を見つけ ・・・・・・ という, 原子的箱と宇宙の入れ子構造ができてゆく.

パスカルが生きた17世紀は, 当時発明された望遠鏡と顕微鏡で人間の視界が極大と極微に向けられた時代であった. パスカルより少し後のライプニッツ(1646--1716)は, 微分積分学の基礎付けにあたり無限小(0に限りなく近いが0ではないもの)の概念を考えた. (ライプニッツは無限小を論理として厳密化できなかったが, 1960年, A.ロビンソンは現代数学にもとづいて無限小量を厳密に定義することに成功した.)