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"分身"の不思議(2の不思議)

孫悟空が頭の毛を引っこ抜いてフーッと吹けば毛の本数だけ悟空の分身ができる ? のだったろうか ? "分身"の話しは楽しい, ウキウキする. しかし, "分身"を現実的に考えると怖い. 何年も前, 私は, ある人に「この前の晩, あの店で飲んでましたね」と言われたが, そのときの自分の居場所を考えるとありえない. さらにずっと前, また別の人に「この前オープンカー(だったか?)に乗ってませんでしたか ?」といわれたことがあるが, 私は免許取得後一度も運転したことのない無事故無違反優良ドライバーである. 自分とそっくりの分身がどこかを動きまわっているのだろうか ? 実は, 上の 2発言とも, それほど私を親しく知るかたではないので, 見まちがいだろうけれど, ちょっとは自分の分身の空想を楽しめた.

さて, Kさんの絵本は, "分身の不思議"を味わうという楽しみ方もできる. まだ読んでいない人はただちに見に行って来てください.

ケンタという「一人の人間であるべきもの」が「2人として」として現れている. 「1つであるべきものが 1つでない」という"ありえないあり方"が困惑と不思議を生む. だから, まともな"犬"は「こまった こまった こまった ・・・」. 当のケンタは何事でもないかのように平気であるので, なおさら不思議感が増す.

あるいは, 分身ではないが, そっくりな双子の兄弟か姉妹に初めてお会いするとき「同じ人が2人いる」みたいな妙な感覚に一瞬襲われたことはないでしょうか? (当然ながら別人格の二人の人だと知ってはいるのですが)

1, 2, 3, 4,・・・・という数, あるいは単数-複数の区別, の認識は「同一のものの, くりかえし, 再現」に接して発生したと想定してきた. そして, 前節のように「一つで形をなすものがくりかえす」ことから 2, 3(あるいは複数)に「多」の意味を生じた. 分身においては, 「1つであるべきものが 1つでない現れ方をする」という矛盾によって不思議を生じる.