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数なんていらない ?

あるときのこと, わたしは, 遊牧民の仮小屋のそばを通りながら, 坂のところにシカの群れをみとめたのである.そこで, わたしは, 128 頭のシカを数えあげた. そして, わたしが, その持ち主にどれほどのシカを持っているかと問うたとき, かれはこう答えたのである. 「わしは, 勘定なんかしたことがないなあ. しかし, もしも群れから 1 頭のシカでもいなくなったら, わしの目は, すぐさまそれを感ずくでしょうな.」(ショームシキン「チュクチ半島にて」)

上の文は, ロシアの20世紀(たぶん前半)の記録. 算数の教育をあまり受けたことのない生活をしていた遊牧民は, "数"をあつかうのは不慣れでも, すぐれた観察力と記憶を知恵として暮らしていたのだろう. 私たちでも, 宝物のように大事にしているコレクションがあったとすると, どれかひとつでも見当たらないとすぐに気づくのではないだろうか.

<前文の続き> (・・・・中略・・・・ その持ち主は, お望みならば計算してもよいと言って) かれは靴をぬいだ. (手の指と足の指で20まで数えられる) そして 3時間たって, 128頭であることを確認した. (かれは, それぞれのシカを記憶していたのだ.) かれは数えるためには自分の 5人の家族では足りず, となりの家からもさらに 2人来てもらった.・・・・・・ (ショームシキン「チュクチ半島にて」から要約)

次は, "いわゆる未開人"についての20世紀初期(?)の記録.

(アビポン人について,) 狩りに出かけるとき, 馬に乗るとすぐに周囲を見まわして, あの多くの飼い犬の中で1匹でも見えないと, すぐにそれを呼ぶ....数えることもできないのに, こんなに大勢の犬の群れの中で1匹がいるかいないかをたちどころに見分けるのを, 私は幾度か不審に思った. (レヴィ・ブリュル「未開社会の思惟」からドブリツホファー氏の報告.)

次も記録年代不明だが, 100年ほど前だろうか.

中央アフリカの森林に住む未開人は, ごく限られた範囲でしか数えることができないのであるが(たとえば, やっと 3 まで), それにもかかわらず, かれらは, 外国の商人たちにごまかされることを恐れずに, 大量の象牙をタバコの束と確実に交換した. そのためには, かれらは, それぞれの象牙とタバコの束とを向かい合わせて並べることによって, 象牙の量とタバコの束の量を比較し, それによって交換される物の集合の数が等しいことを確認したのである.(イー・ヤ−・デップマン「算数の文化史」現代工学社)

テーブルをかこんで皆がイスに座る. イスが足りて, しかも余らないとすると, 人の数とイスの数は等しいことになる. イス 1個が人間ひとりにピッタリ対応している. このような対応を一対一対応 と呼んでいる. 個数が等しいかどうかを調べるためには, 一対一対応するかどうかを調べればよい. 数なんか知らなくてもよい.

小学校の運動会の玉入れ. かごから赤玉と白玉をひとつづつほおりだしながら「ひとーっつー, ふたーっつー, みーっつー, ・・・・・・」と皆で数えるが, 一対一対応の原理からすると数える必要はない. 赤玉と白玉をひとつづつそろえてほおり投げさえすればよい. かごが同時にカラになれば同数, 一方が余ればそっちが多い. ・・・・・ しかし, 黙って投げ上げても盛りあがらないだろうなぁ.

・・・・(古代ペルシャの王)ダレイオスは 1本の革ひもに60個の結び目を作り, イオニアの独裁者たちと会見して言うには,
「・・・ この革ひもを手許において, これからわしのいうとおりにしてもらいたい. そなたらはわしがスキュタイ人攻撃に出発するのを見たならば, そのときから始めて結び目をひとつずつほどいていってくれ.その期間にわしがもどってこず, 結び目の数だけの日が経過したならば, そなたらは船で帰国してくれてよい. ・・・・・ 」(ヘロドトス「歴史」巻4, 98節)

もちろん, 古代の文明国ペルシャの王は数を知っていたが, 数の記録のためには, 今の紙のようなものが手近にはない. そこで, 昔の人は, 数を記録するのに結び目や, 木につける刻み目などをよく利用した. (一時的には, 指の形や計算板なども)

上の文で「結び目をひとつずつほどいて」いく過程は, 結び目ひとつと一日を一対一対応させて, 60個の結び目と対応する日数(60日)を知るくふうである.

私たちが物を数えるとき, 「指折り数える」ことがあるが, そのときは, 数える物と指を一対一対応させているわけで, だから指を見て物の個数がわかる.