"数のはじまり"のトップヘ / Haniu files のトップヘ

個体性の認識と数のはじまり

私は, 近くの小川にそってぶらぶら散歩するとき, ふつう何かを数えるなんてことは思いもせずにのんきに歩いている。小川の水の流れと水音, まわりの木々の緑と風音に浸り, 数どころか言葉さえ忘れていることがある。それでも, たまに何の気なしに数えていることがあり, 何を数えているかというと, その小川にくちばしがオレンジ色の水鳥がいつも群れをなして泳いでいて, その群れている鳥の数を 1, 2, 3,・・・・, 7羽などと数えていることがある。水の流れや木々にくらべて, 動物というのは, 1個体ずつ, それ以外のものから明瞭に区別されて見えやすい。つまり, 動物はその個体性が認識されやすい。そして, 個体性が認識されてはじめて, 1, 2, 3, ・・・・ と数えることも可能になる。風や水の流れはもちろん, 木々も散歩の背景としては連続的な流れとして意識されるだけであるならば, 数えられる対象にされにくい。というわけで, 個体性の認識は, 数えることの不可欠の前提だといえる。ただし, 個体性の認識だけで, 必然的に数えることが行われるわけではないが, これについては後で考えよう。

個体性ということをもう少しきちんと考えておく。個体とは, それが周囲から明瞭に区別されるだけでなく, それを分割すると, それであることをやめてしまうようなものである。 たとえば, 動物個体は, 周囲から明瞭に区別されるだけでなく, 分割すると死んでしまい動物であることをやめるから, 動物個体は indivisual(個体)の原義「分割できない」にもよく合っている。

さて, 個体性の認識が数認識の前提であることに関連して, 日本語の数詞「ひとつ」は語源において「ひと」とつながっているという説は興味深い。(白川静「文字講話I」平凡社) 人間にとって, 同類の人間は, 最も日常的にその個体性を認識する対象であるから, あらゆる対象の中で「ひと」をこそ, まず, 「ひとつ」「ひとり」と数えはじめたと想像しても理屈に反しないと思える。また, ヨーロッパの言語でも 2人称を表す語と 2 を意味する語とが語源でつながっているという指摘を読んだことがある。二人称単数は, ドイツ語で du, 古い英語で thou, フランス語で tu 。(英語の you は元々 2人称複数の言葉だった)「2」は, ドイツ語でzwei, 英語で two, フランス語で deux 。

「個体性の認識が計数の前提」ということは, 特に, 英語の名詞表現にはっきり確認できる。英語の名詞"glass" は, そのままの形ならば材質としての「ガラス」のことで, "a glass"なら1個のグラス(コップ), "glasses"なら複数のグラスの意味になる。一般に英語の名詞は, 「ガラス」が材質としてだけ扱われているように「個体性の認識」がされていない場合と, (それに液体を注ぐ)グラスのように「個体性の認識」がされている場合に, 必ず分別され語の形も区別される。また, 同一の名詞が, 個体性の認識がない場合は, 材質としてのガラスが数えられないように, 不可算名詞として, 個体性の認識がある場合は, グラスが数えられるように, 可算名詞として扱われる。このように, 個体性の認識の無-有と, 不可算-可算が対応している。

このことについて, 織田稔「英語冠詞の世界」(研究社)はとても興味深い。英語の不定冠詞 a は, 語源的には one(ひとつ)から来ており, 現在も「ひとつの」という意味をもつが, a は one とは異なった機能をもつ。織田氏によると

「英語母語話者が不定冠詞に求めたものは, 「1つ」と数えるのに先だって, それに必要な存在の認識と, その表示のための標識である。 すなわち, 数詞 one を用いて「1つ」と数えるためには, まずそのものを, 数えることのできる個体として認識することが必要であり, 個と認めて初めて「1つ」と数えることができる。このような, 数詞 one の counting機能の基礎的前提となる counting indivisuality とその認識の表示こそが, 不定冠詞に求められた機能であった。数詞 one の底辺部分におけるこの個体の認識, それに価値を認めて, その識別表示の標識として, 数詞 one から別れて独自に発達してきたのが英語の不定冠詞である。」

英語における不定冠詞 a の, 数詞 one からの機能上形態上の分離は, フランス語やドイツ語の場合とくらべてもはっきり進んでいるそうである。

以上, 「数えること」には「個体性の認識」が不可欠ということを話してきたが, 「個体性の認識」だけではたりないと私は考える。たとえば私は道を歩いていて,よく犬に吠えられる。(吠えられやすい人とそうでない人があるような気がする。私は吠えられやすい) このとき, それが1匹の犬であったとしても, 私には「1匹の」犬に吠えられるという意識はあまりない。まず,「犬に吠えられる」のだ。吠えている犬の個体をしっかり認識しているが, 「1匹」ということは私の意識の前面にはない。今日もまた「犬に吠えられる」と感じるだけ。これがもし, 2軒の家の番犬の両方から吠えられたりすると「2匹もの犬に・・・・」と思うことになる。 数の意識というのは, 2以上があって生まれるものだろう。1というのも, 2以上との対比ではじめて数として意識される。

また, 人が犬と散歩しているのを見て「人と犬の合計2つが・・・・」と思う人はあまりいないと思う。数というのは, 「犬2匹」「人が3人」のように同種のものが複数あるときに使うのが一番自然なのだ。(参考 2の誕生(単数と複数))

実は初めに書いた「小川で群れをなす水鳥を数える」例は, 「数えること」が成立する前提条件を十分そなえている。それは, (1)個体性の認識が起こりやすい対象であり, (2)同種類の複数の対象であり, (3)ひとまとまりの集まり(群れ)として, その外部から区別されて認識されやすい。(3)について。人がものを数えるとき, 数え始める前に「これが全部」という対象全体の把握があるのがふつうなのだ。道の石ころのようにどこまでもばらつき広がっているものを, ふつう数えようと思わない。鳥の群れのように, 自然に限定された境界のある対象が, 数える対象になりやすい。(参考 双数について)

さて, 個体性の認識の有-無と対応する可算性と不可算性が, 数の世界の分離量と連続量の話しにつながってつくのだが, それはまた別の機会に。

(2006年3月記す)