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二について

"非分割"を表すのが 1 であるのにたいし, "分割のはじまり"を表すのが 2 である。

一を分けて二となるが, 一はなくならない
双の二 2は多のはじまり, 同一性のパラドックス
2項対立の二 1人称 2人称の2, 二項対立の二項はとりちがえやすい。
他。二の全般について 計量性と象徴性, 二は一を求める

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1を分けて 2となるが, 1はなくならない

だいぶ前の, 当時 16歳くらいだったS君の質問。私が授業中黒板で「こっちの 3個と, あっちの 4個で 7個」というようなことを言ったのを受けて, 授業後, 彼は,「こっちと あっちをあわせるから 7個なんですね」と聞く。彼との簡単なやりとりで, かれは「3個と 4個は "3個と 4個"のままでもよい」と考えていることを確認した。もっと単純な話しにして「1たす1は"1と1"」でもよいという話しになった。「1 たす 1 は 2」というのは, 1 と 1 を「ひとつの全体としてまとめる」視点があってはじめて成立するのだ。(「2をひとまとめにする」の後半や「双数について」でも触れた)

2からはじまる多数(2, 3, 4, ・・・・・)についても同様。どんなものを数えるときも, 特に意識していなくても「ここからここまでを全体」と考えてはじめて, 何個と数えられる。また, 1 を 分割して, 2, 3, 4, ・・・・ どんな多数にしようと, 全体をひとまとめとする視点としての 1 はありつづける。

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双の 2

蟻 1匹と象 1頭をあわせて 2匹とは言いにくい。蟻 2匹や, 象2頭なら抵抗はない。2, 3, 4, ・・・・ と数えてゆくのに, 同種のものならば抵抗がないが, 蟻と象のように異質性が強く感じられると抵抗がある。英語などの言語にある単数複数も同種のものがひとつか 2 つ以上かの区別である。「同質なものの並立やくりかえし」に対して 2, 3, 4, ・・・・ と数えるのがふつうである。漢字の「二」も「双」も「同じものの並立」の形そのままだ。「ウリふたつ」とは, ウリをタテに切るとそっくりな形になるから, そっくりなもののたとえになる。世界の言語には,単数複数の他に「双数」というのを残している言語があり, 両目, 両耳, 両手, 両足のように, 同じ形のペアに対して使われる。「同じものの並立」は古代人にも, 特別な印象を与えたのではないだろうか。(双数についてもごらんください)

このような「同質のものの並立やくりかえし」の 2 を,「双の二」と呼んでおく。(2の誕生も参照ください)「双の二」に関連する話題をいくつか挙げる。

2は多のはじまり

(2は多いを参照ください)

同一性のパラドックス

【1】「同質なものの並立」を「同一なものの並立」まで極端にすると,「同一」すなわち一つのものが二つとして現れるという奇妙なことになる。自分の分身を見てしまうドッペルゲンガーという現象の報告があるが, これは想像するだけでも興味深い。自分はこの世に 1人の存在であり, 分割されえず, 複製もありえない, と, ふつう私たちは思っていて,「自分という意識経験」こそ, 1 ということの主観的な基本経験であり, およそ 1 というものを理解できる主観的基盤かもしれない。そのような 1 であるべき自分が 2 として現れてしまう困惑。分身の一方が死ぬときは他方も死ぬのだろうか ? もしそうなら, 分身二者の同一性も本物だ。他に, 1 であるべきものが 2 以上として現れる現象として, 多重人格もあるし, 双子は 2人でありながら一つの魂をもつと考えられていた文化もある。

【1補足】もっと誰でも経験できることで「一つであるべきものが二つに分裂する」経験として, 疑念やうそがある。このため「二」は疑念やうそを意味する言葉に使われている。たとえば,「二心」は国語辞典によると(1)そむく気持ち(2)疑い, 疑心。いずれも, 表向きの顔と裏の心の二面性を表している。英語でも, (1)double heart(二心), double-faced(二心のある), (2) doubt(疑い。語源はラテン語 dubitare「2つの心の」), これらがそっくりな言葉である。「二枚舌」は, 同じ意味でドイツ語にもあって doppelzungig(2枚の舌)。「二言(にごん)」は (1)二度言うこと, 言いなおし(2)うそ, 二枚舌を使うこと。(用例)「武士に二言はない」
また別の種類の表現だが, "alter ego"(別の自己)は「親友」の意味。「身は二つでも心はひとつ」といういい方もある。

【2】ドッペルゲンガーは「同一と思えるものが 2つとして現れる」のだが,逆に「まったく別物と見える2つのものを同一と見なす」現象もある。オーストラリアやアフリカなどの原住民文化には, 部族の人間が自らをある動物などと同一視する,いわゆるトーテミズムが知られている。たとえば, レヴィ・ブリュル「未開社会の思惟」によると,
(1)ブラジルのボロロ族は, 自分たちはオオムだと(まじめに)いう。またメキシコのヒュイコル族では麦と鹿とヒクリと呼ばれる聖木は, 同じものである。またこのように麦でありヒクリである鹿は, 蛇,雲, 木綿と同じく羽毛である。
(2)カリフォルニアのインディアン部落では, お祭りのときにある種の鳥を犠牲にする。ところがその日に殺された鳥は何匹いても,同じ鳥だと信じられている。
(もとの報告資料は 1900年前後ころか? 上の文は内藤莞爾の訳にもとづく。)
(1)(2)のような報告に対する, 私の感想からいうと, 矛盾と不思議さを感じる一方で,「ああ, そういうのもありだろうねぇ」と受けとめている面がある。そう受けとめられる理由は, 私自身の経験にあるのだがここでは触れない。
レヴィ・ブリュルは,(1)(2)のような現象に対して, いわゆる未開人の心性の原理として「融即の法則」と呼ぶもの考えた。近代人は, あるものごと A と Aではないもの(非A)は決して等しくはない, と考えるが, 未開人心性の「融即の法則」は, A と 非A が等しいことを許容する, という。 これに対し, レヴィ・ストロースは「融即の法則」をまったく否定し, いわゆるトーテミズムを, 部族社会の分類機能の面からとらえた。

トーテミズムについては, 個人の直覚にかかわる相,集団的な感情や信仰にかかわる相,社会的機能の相,これらの相が複合していると,私は見当をつけている。

【2補足】「別の物を同一視する」とは不可解に思われるだろうが, 実は日常の表現や論理的な表現でも, 形式上は似たことがある。2+3=5 は,「2と3をたしあわせたもの」が「5という数」と同じだ(equal), ということで「別の現れ方をしているものが, 実は同一だ」といっている。5=5 とはわざわざ言わない。「芸名○△の人と本名□▽の人は同一人物である」ともいう。「芸名○△の人と芸名○△の人は同一人物である」とは, 単なる同語反復であり言う必要もない。別の現れ方をしているからこそ「同じだ」と主張することに意味がある。これは, トーテミズムの例とは性質がやや違うが参考になる。

【3】さて, 次に,「同一なものの(時間的)くりかえし」の例。たとえば「1 年前の自分も今の自分も同一人物だ」という。しかし, 誰だって, 体つきは変化しているし, 性格だって多少は変わってくるのに, 何の疑問もなく同一人物として扱うのはなぜだろうか ? 金を借りた以前の自分とくらべて今の自分は変化したから, 今の自分は金を借りた人物とは別人である ! したがって今の自分に金を返す義務はない ! と言う論がある。(古代ギリシャ喜劇にあったらしい) これをまじめに議論すると経済が破綻するからやめた方がよいが, 社会運営上の理由を除いても,「時間がたっても自分は同一」という根拠はあるだろうか ? この場合の「自分は同一」というのは次のような意味ではないか。誰でも体も心も変化しているが, 1人の人はその誕生から死までの間を時間的に連続して存在するのだから, 人間は時間的に分割できない。きのうの自分があるから今日の自分なのだ。したがって, 人は, 時間的に分割されない連続的な存在なので 1 とするにふさわしい。こんな意味で「時間がたっても自分は同一」といえるだろう。ただし, それとともに別の意味では「自分は変化し続けている, したがって同一ではない」といえる。

【4】原子物理の話しは受け売りだが, 原子レベルでの粒子のふるまいが, 同一性と関連して非常に興味深いので紹介する。まず, こんな実験を想定する。2個の玉◎と●を, 1個ずつでたらめに2つの箱AとBに入れる場合の確率を考える。2玉が2箱に入った状態は,

(1)(2)(3)(4)
AB □□ AB □□ AB □□ AB
◎●
□□
□□
◎●
の4通りあり, どの場合も確率1/4 と考えよう。これを確率分布 I としておく.

ところが光子(光の粒子)のふるまいを, 2玉2箱におきかえていうと, 次のような確率分布になるという。

(イ)(ロ)(ハ)
AB □□ AB □□ AB
○○
□□
□□
○○
の3通りが, いずれも確率 1/3。これを確率分布 II とする.

確率分布 Iでは, (2)と(3)のように ◎と●のどちらが Aに入るかまで区別してできる 4通りに対して, 確率が等しく分配されている。これに対し, 確率分布 IIでは, Iの(2)(3)が(ロ)にまとめられているように, 個数の配分方法(2-0, 1-1, 0-2)だけで区別された 3通りに, 等しい確率が分配されている。IIでは 2玉の区別はなくて頭数さえそろっていればよいかのようだ。光子はこのようにふるまうので, たとえると人間2人よりも孫悟空の分身2匹みたいな感じだ。
I はマックウェル-ボルツマン統計, IIはボーズ-アインシュタイン 統計。これらとまた別に電子や陽子がしたがうフェルミ-ディラック統計がある。小針あき宏「確率・統計入門」(岩波書店)を参考にした。

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二項対立の二

二つからなる組には, 対立する概念の組や, 分類のための二項などもある。これを「二項対立の二」と呼んでおこう。

古代中国人は, 天地, 昼夜, 日月, 明暗, 男女, 奇数偶数, 剛柔, ・・・・ などの二極対立を, 渾沌たる原初の一(壱)から分かれて生まれた「陽と陰」として一般化してとらえた。(陰陽思想) 世界各地の原住民文化でも事物を二分して分類してゆくことが広く行われていた。もちろん近代文明人もふくめて, 物事を, 差異や反対の性質によって, 2つに分けて名づけ分類することは, 人間の思考の基本だろう。

1人称, 2人称と二

何か話すには相手がいる。話す自分(1人称)と話す相手(2人称),そこで話題にされる彼, 彼女(3人称)。「我と汝」(1人称と 2人称)は, 自分をまきこんで経験される二項関係である。インド・ヨーロッパ語族では, 2人称単数「汝」を表す言葉と「2」を表す言葉は語源でつながっているという。(カッシーラー「シンボル形式の哲学(一)」岩波文庫p.329) この説についてはよく調べていないが, 身近な本からメモしておく。二人称単数は, ドイツ語で du, フランス語で tu, 古い英語で thou 。(英語の you は元々 2人称複数の言葉だった)「2」は, ドイツ語でzwei, 英語で two, ラテン語で duo 。

人称代名詞には, 上記のような人称による区別とともに, 単数複数による区別(1人称でも, I と we のように)がある。対人関係は, 数的な識別に注意させる, 最も古く基本的な経験のひとつだったろう。(参考 : 動詞の数と数の動詞化)

また, 日本語の人称代名詞は, 1人称2人称単数複数用の言葉を一応あげることはできるが, あまり確固とした感じがしない。ヨーロッパ言語の文法の分類につきあえば一応そろえられます, っていう感じ。対人関係のとらえ方の違いと関係あるのだろうか ?

二項対立の二項はとりちがえやすい

双の二を生むのは同質なものだったのに対し, 二項対立の二項は, 正反対の性質だったり差異が明確なものである。それなのに二項対立の二項はとりちがえやすいようだ。たとえば・・・・・ 「あっち向いてホイ」や「赤あげて, 白あげないで赤下げて・・・・」で, とっさに向くべき方向と反対にいきやすいのでないか。軍隊で,「右向けー右」といわれれば左, 「左向けー左」といわれれば右に, どうしても向いてしまう人がおり, 上官に一人だけ皆の前で命令されおもしろがられていた, という話しを聞いたことがある。左右と似て数学の不等号< >も, 頭の中で混線しやすい人がある。集合の問題で少し複雑な聞かれ方をすると, ある集合とその集合の補集合をとりちがえやすい人もある。以上の例で, いずれも本人はその二項を理解しているのに, とっさのとき, 慣れぬとき, こみいっているとき, などの状況下で, 為すべき判断と反対に向かってしまう。(右向け右の話しは「反対にまちがえる回路」ができてるみたいだが。) その結果は, その状況のルールでは正反対の間違いとされてしまうが, 正反対だからこそ起こりやすいのだ。これらの間違いの起こりやすさの主な原因は, 二項対立の性格にあるのだろう。すなわち, 二項対立の二項は, 一方が他方との対比でその意味を明確にするから, 対称的あるいは相補的あるいは相互浸透的な性格を持っている。その意味で, その二項は非常に密接な関係にあるから, まるで, 別の部屋に通じる隣り合うドアのように, 我々の前に現れる。(信号で赤青の間に黄色があるのは重要かもしれない)

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他。二の全般について

計量性と象徴性

「双の二」を生む「同質なものの並立や繰り返し」は 3, 4, 5, ・・・・ をも生むことになり, 「同質なものの並立や繰り返し」が数の順序性や足し算のような計算の意味を生じさせる。たとえば, 2人の人と3個のリンゴをくらべてもしかたないが(同質な)リンゴ 2個と3個なら 3個の方が多い(から腹のたしになる)というふうに。

これに対して, 「二項対立の二」は順序性や計算の意味は持ちにくい。天の一と地の一をたして二,といってみても,何か新しく意味のあることはわからないだろう。この場合の「一に一をたして二」には,天と地の対極性や質的差異はなんにも反映していないから。

およそは「双の二」の先に計量としての数が発展してゆく。象徴やイメージの源泉としては「二項対立の二」も「双の二」も働いている。現代では, 数の象徴性はほとんど忘れられがちで, 数とは計量のためのものと思われている。

二は一を求める

分裂としての「二」は,「三」によって統一されるか, あるいは全体性の「一」をあこがれ求める。後者の話題を二つだけ挙げておく。

プラトンの「饗宴」で語られる神話は有名である。昔, 人間はすべて, 今の人間が2人合わさったような形態で, 男男, 男女(おとこおんな, アンドロギュヌス), 女女の3種類があり, どれも球形の姿態に8本の手足, 体は強力で心は驕慢であった。そしてついに神々に刃向かったので, 神々は人間をみな 2つに切ってしまった。そうしてできた, 男,あるいは女は, それぞれ, 切られる前の片割れの男, あるいは女を追い求めるようになった ・・・・・

単細胞生物ゾウリムシの接合現象を, 生物学者ジャン・ロスタンが美しく書いている。二は, ひとつにつながり交流し, たがいの生命を更新しあう。澁澤龍彦「夢の宇宙誌」(河出文庫)所収「アンドロギュヌスについて」に紹介されているので読んでいただきたい。(文庫本のp.208〜213)


泉井久之助「印欧語における数の現象」(大修館書店.1978年)は, 単数, 複数, 双数をめぐって, 一と二について興味深い考察を示している.